14th archiforum in OSAKA 2012-2013

「新しい建築のことば」

 
テーマ:「普通であるということ」 
ゲスト:中坊壮介(プロダクトデザイナー)
コーディネーター:田頭章徳(神戸芸術工科大学助教、DesignSoilディレクター)

「Stand Fan(DC Motor Type)」 by±0,
2012年 Sosuke Nakabo Design Office

 
第1回「普通であるということ」レビュー 執筆者:赤代武志(建築家)

「普通であるということ」 中坊壮介/田頭章徳

「答えが出るかどうかわかりませんが”普通”ということについて考えてみたいと思います」という田頭氏の一言からレクチャーが始まった。

■当たり前の状況について考える
田頭氏が教鞭をとる神戸芸術工科大学の学生と教員の有志による「Design Soil」というデザインプロジェクトの紹介である。
日本の大学教育における学生は守られ過ぎているという現状(学生の作品という前提でしか批評されない)から抜け出すための教育プログラムとして位置づけ、教員だから学生だからという前提ありきではなく、各個人がデザイナーとして個人名とともに発表するかたちをとりミラノサローネやDESIGNTIDEに出展してきている。田頭氏はディレクターとしてだけではなくデザイナーの一人としても参加している。
過去二回のコレクションには、それぞれの問いがたてられていた。
一つ目が”Souvenir”というテーマでDESIGNTIDEに出展されたもの。主要航空会社の国際線機内持込み制限サイズ以内にパッキングできる家具というテーマは、送料という家具産業全体のボトルネックになっている流通において、解決策につながっていくのではないか。また、旅先で家具をお土産として買って帰るということをも可能にするのではないかという問いとして。
二つ目が”epilogue/prologue”というテーマでミラノサローネに出展されたもの。物には始まりと終わりがある。愛着を持って長く使っていた物に対しても、いつの日か役割を終えざるを得ないという状況について、考えるべきではないか。考えることから次の何かが始まるのではないかという問いとして。
田頭氏がディレクションする際に、いつもリファレンスを意識すると言う。
なぜなら人は初めてみるものに恐怖心や警戒心を持ってしまうが、身の回りのありふれた物の姿を借りることで身近なものと感じてもらえると。
これはカモフラージュとオカルトの関係とでも言えるのではないだろうか。前者は受け入れられるものとしての周囲の環境と、判別がつきにくいように容姿を似せていく。後者は神秘的という訳もあるが、人の経験的想像を超えたもので、理解不能という本能から拒絶してしまうものだ。プロダクトとしては経験的想像を超えた物を獲得したいが、オカルトでは受け入れられない。
プロジェクトの意義・それぞれのテーマ・受け手の心理ともに、当たり前として見過ごしがちな事柄について丁寧な観察を重ね、提示することで、個人的な問題では終わらず本質的な問いを掲げ、結果的に主題となり得ているのではないだろうか。

■実際の世界を受け入れる
中坊氏がデザインリサーチャーの水野大二郎氏とともに進めている「Design for the Mundane World」というプロジェクトの紹介である。
答えのない答えについて議論する場として位置づけ、学生も交えてワークショップ形式のディスカッションを行っている。”Mundane”の意味としては「平凡」や、「ありふれた」というような、ややネガティブなニュアンスで訳される場合が多いが、「実際の世界を受け入れている」という実はポジティブなニュアンスとしても捉えることが出来る言葉だ。
ここでは誰もが知っているけど、なぜそのような形で存在し続けているのか?というような物をテーマに掲げている。形と機能の関係は簡単に説明できる。さらに注意深く見ていくと、仕組みや条件をかいくぐって存在している物がある。そうやって存在しているという事実自体が、物自身に人格があるようにさえ思えてくると。
たとえば新幹線で購入した飲み口を起こすことができるコーヒーの蓋は、バキュームフォーミングという成型方法でつくるられる形として理にかなっている。その他、喫茶店などでよくみるオフセットし折られた紙ナプキン、オーバル型のプラスチック成形されたお弁当箱や、最後まで使い切るためのシールが貼られたイギリスの石鹸、靴における蝶々結びなど、たくさんの実例をあげ、”Mundane”な物の基準をより身近な物の紹介から感じ取ることが出来た。
続いて中坊氏が手がけたDESIGNTIDEの会場構成の紹介。プロダクトデザイナーとしてまず考えたこととして、展示物と展示空間の関係ということがあった。陰影が強く出てしまう展示空間の照明に疑問を感じ、撮影スタジオの照明効果をヒントに陰影をディフューズする装置としての空間構成を実現。SNSを利用して来場者から発信されたプロダクトの姿が格段に美しくなったという。
それだけではなくその装置を実現するためのパーツにもこだわりが感じられる。赤いザイルやコンクリート杭など、必要な機能を身の回りのもので代用するには余りあるかもしれないが、ハレの場には出てこない物たちの選択にも中坊氏の通底する姿勢がみうけられる。
ここでも劇的な空間演出をしがちなところを、身近な物への観察眼と経験を丁寧に紡いでいくことで、会場構成と展示物の本質的な関係を、浮上させることに成功している。

■6冊の予習本
今回、レクチャー数週間前に予習本がtwitterにて告知された。
「生きのびるためのデザイン」ヴィクター・パパネック 著
「モノからモノが生まれる」ブルーノ・ムナーリ 著
「フォークの歯はなぜ四本になったか」ヘンリー・ペトロスキー 著
「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」多木陽介 著
「考えなしの行動?」ジェーン・フルトン・スーリ+IDEO 著
「SUPER NORMAL」ジャスパー・モリソン、深澤直人 著
レクチャーの中でこれらの本が直接的に参照されることは多くはなかったが、確実に思考レベルでのつながりを感じ取れたのは言うまでもない。それは共有できる部分があったというだけではなく、差異も含めて参照可能だろう。予習だけではなく、復習、もちろん今後への展望にもつながる本である。

■建築における”Mundane”な物
アーキフォーラムということでプロダクトにおける事例に続き、建築における”Mundane”な物として例にあげられたのが、51C型(公営住宅標準設計)と、超合法建築図鑑(吉村靖孝 著)に取り上げられている建築群だった。
この2つの括りがプロダクトで示された事例がスッと頭に入ってきたのに比べると、スッと入ってこないのは何故かを考えてみたい。この2つの事例は、時間とともに淘汰や洗練されて残るべくして残ったものとして括るには少々不具合が生じる。ペトロスキーの「フォークの歯はなぜ四本になったか」で述べられている失敗からの学びによる歴史を持っていないことも関係しているからなのだろうか。”Mundane”になる条件のひとつとして、デザイナーの顔が見えないことに合致していないのも所以だろうか。
前者は吉武泰水氏をはじめとする建築計画学のメンバーが結集し、西山卯三の食寝分離論をもとに食寝分離と就寝分解の両立を目指し、最新の標準解を模索し世に出て行った。
後者は東京における都市生成を建築基準法をもとに紐解き、いくつもの制限の補助線を引くという行為で可視化・類型化し、都市の読み方を提示する試みである。
もしかすると”Mundane”な物としてあげるならば、51C型そのものではなく、それが目指した住まい方に対して与えられた広めの台所のことを、後にダイニングキッチンと呼ぶことから始まった「LDKという表記」と捉えることが出来るかもしれない。
また、超合法建築図鑑に取り上げられている建築群ではなく、斜線制限により削られた部分に対して「段々畑のようなバルコニーを設けるという解法」と捉えることが出来るかもしれない。
引き続き、建築における”Mundane”な物(事)とは何か?を考え続けていきたい。

■普通であるということ
意識的に使われていたのは間違いないが、こんなにたくさんの「あたりまえ」「ありふれた」「ふつう」という言葉が、ポジティブな意味(狭義な意味)で使われたレクチャーは無かっただろう。
レクチャーを通して再認識したことは、身のまわりにあるものを丁寧に観察する(+疑ってかかる)ことの可能性だ。
レクチャーのタイトルが「普通であるということ」という「状態」を示すことからも、静的ではなく動的であり、常に書き換えられ続け、日々更新を重ねるたびに本質を浮かび上がらせていくものだとも感じ取ることができる。
物の存在理由として、機能、姿、色、素材、時代、工法、コストなどあらゆる条件があるのは言うまでもない。それらをよく分析し、それらを満たしたうえで今なお使い続けられている物が、身のまわりにもあるということも再認識できた。
では、これらから我々が受け止め、実践していかなくてはならないのは何だろう。”Mundane”な物を生みだす術を身につけるということだろうか。いや、そんなに乱暴で直接的なことではないはずだ。では、スーパーマン(超人、もはや人ではない存在)の到来を待つことしか出来ないということだろうか。いや、そんなに失望することでもないだろうし、源泉を外部に頼ること自体が悲しすぎる。
「普通であるということ」について考える(考え続ける)ことは、物事の見方を意識する起点に過ぎない。そのうえでメタな視点を持ち、物事の関係性を築きあげる必要性を知ること。結果論として位置付けられることが多い”Mundane”な物だが、それらを知るということだけに留めず、次の新たなる存在を生み出す道筋として意識していくこと。これら両方が備わってこそ有益なのだろう。
均一化した時代において、いかに身の回りに散らばっている物事を、バイアスをかけずにマッピングする力を持ち、どのような方法で個人に引きつけ、次なる物事を生み出す原動力と仕立てあげるか。限りなく存在する解答の中で何を表明し続けていくのか。あらためてそこを問われた気がしてならない。


 
執筆者プロフィール

赤代武志(ドットアーキテクツ)

1974年 兵庫県生まれ

/1997年 神戸芸術工科大学 芸術工学部 環境デザイン学科 卒業

/北村陸夫+ズーム計画工房、宮本佳明建築設計事務所を経て設計活動を開始

/2004年 ドットアーキテクツを家成俊勝と共同設立

/大阪工業技術専門学校、大阪市立大学、神戸芸術工科大学 非常勤講師


 

第1回:2012年11月17日(土)17時〜19時(開場16時30分)
テーマ:「普通であるということ」 
ゲスト:中坊壮介(プロダクトデザイナー)
コーディネーター:田頭章徳(神戸芸術工科大学助教、Design Soilディレクター)


●ゲスト略歴
 1972年京都生まれ
 1998年京都市立芸術大学プロダクト・デザイン専攻卒業
 2002年英国Royal College of Artのデザインプロダクト科修士課程修了
 2002年〜2010年松下冷機デザインセンター、良品計画企画デザイン室を経て、
 ジャスパー・モリソンのロンドンオフィスに勤務
 2010年Sosuke Nakabo Design Office設立

 2010年−京都大学経営管理大学院非常勤講師
 2012年−京都市立芸術大学非常勤講師