誰がために建築は建つか 第11回講演:三分一博志
地球のディテール/ 六甲

「六甲枝垂れ(2010年) / 兵庫県神戸市灘区六甲山」
photograph by 三分一博志建築設計事務所

 
タイトル:建築の存在の意味を問う  執筆者:畑友洋(畑友洋建築設計事務所)

東日本大地震が起きて早二週間になる。想像を絶する状況がメディアを通して押し寄せてくる。軽々と建築は持ち上がり、次々と波に飲み込まれていくその様子は、建築に関わるものであろうがなかろうが、言葉にならない状況である。直接、間接を問わず今なお被害の全容さえもつかめない、おそらく会場の中の、全ての人々の中に、そんな生々しい現実が渦巻いている状況でのレクチャーであった。前置きとして、このような状況について触れておきたいと思ったのは、そのような中にあってこそ、レクチャーいただいた三分一氏の建築が、またその思想が、象徴的なメッセージのようなものをより一層色濃く表しているように感じたからである。

レクチャーは三分一氏の実作を紹介、説明いただきながら、それらの建築作品に共通する設計手法及びその思想について順次説明をされていくものであった。本レビューでは、最初に三分一氏があげられたいくつかのキーワードに着目し、そこから建築作品に共通する思想について、今一度考えてみたいと思う。

「地球のディテール」という言葉を用い、自身の建築作品を説明された。その意味を筆者なりに解釈すると、例えば植物が生息する地域の環境に、無理なく順応し、根を張り、枝葉を茂らすように、建築とは地中及び地上に、ある固有のバランスを持って定着する、そのような存在であることが望ましいのではないか、という考え方である。確かに我々は、草原や森林を見るときに、草花と大地を区別して認識しないし、樹木と大地を別々に捉えることはないだろう。それは植物が無理なく大地に定着した状態であるからであり、草花や樹木を含めて我々はそれを大地として捉えているのである。近接した草原にあっても、日向と日陰で群生する植生が異なっていたり、同じ山にあっても、北側の斜面と南側の斜面の樹木の植生が異なるように、植物は環境に応じて、まさに大地に定着しているから生存できていると言える。では、どのような手法において「地球のディテール」となるような、建築が可能となるのだろうか。
その手法、思想を物語るキーワードとして、「エナジースケープ」という言葉を用いて説明をされた。「エナジースケープ」とは、循環する地球のエネルギーがもたらす景色、またはその循環のプロセスそのものであり、例えばそれは紅葉や雪景色などである。単に自然が生み出すものだけが「エナジースケープ」と定義されているわけではなく、そのエネルギー循環のサイクルに順応した、人為的な風景も含めて考えられている。例えばレクチャーの中では、山に降った雨が、地形をつたって流れるという、水の位置エネルギーを原始的に利用した、棚田の風景を具体的に説明されている。そして、建築は「エナジースケープ」と一体となることで、「地球のディテール」として地球にも人にも認められる、持続的に美しい存在となるというのがレクチャーの中での趣旨であったと思う。
その思想の中で、私は人為的に生み出されたものでさえも、空気や太陽光と同様にエネルギーの隆起としてフラットに考えられている、エネルギーというもののレンジを広く捉えられている点を、とても興味深く感じた。実際に、紹介いただいた建築の中でも、犬島アートプロジェクト「精錬所」(以下犬島)では、銅の製錬所跡地にある、煙突や崩れ落ちた建造物群が、その他の地形や環境特性と同様に、ドライに地形の一部、エネルギーの集積として計画に取り込まれている。そこでは、過去に銅の製錬により副産物として廃棄されていたカラミレンガを収集し、建材として積み直すなど、見ようによっては尋常ではない執着心をもって計画されている。
自然、作為に関わらず、その場所にあるエネルギーの流れ、隆起、断片を利用し、そのまま空間におとしこもうとする思想が感じられる興味深い例だと思う。

上記のように二つのキーワードを軸に、レクチャーを伺っていると、三分一氏の建築が生まれるプロセスとは、非常に客観的な観察や観測により、自然とその場にふさわしい建築が立ち上がってくるような言わば合気道的なものに感じられる。しかし、果たしてそんなことが可能なのであろうか。
そこで私が考えてみたいのは、犬島や北向傾斜住宅のような、地形を含めたエネルギーの流れに逆らわない、または有用に生かそうとすると、自然と導き出されたかのような、ある意味で合理的で客観的な手法によって生まれたはずの形態や空間が、極めて特殊でオリジナリティーにあふれたものとなって実現されているという素朴な問いである。

その問いに対して、重要な手がかりとして、三分一氏の建築は、その都度、環境を構成する動的要素(空気や水などの動き、現象、またそれらに媒介される熱環境等)を巧みに選択し、(場合によっては発見し、)その都度特徴的な形態を与えることによって、前提を選ぶということ、その中でも特に興味深いのは、環境のスケールのようなもの、身の回りのミクロな環境や大陸を横断するようなマクロな環境をその都度選択し、同時に、その要素を建築の主題として具現化することにより、特殊解が導かれているという点にあるのではないだろうか。
例えば、空気を暖め、排出する煙突のような機能に着目したとき、MiyajimaOffice船倉税理士事務所(以下MiyajimaOffice)や自然体感展望台六甲枝垂れ(以下六甲枝垂れ)、犬島ではまさに煙突然としたハイトの空間として具現化されているが、エアー・ハウスでは屋根下の層として、またEnergy Penthouseではペントハウスとしてのアイコン的空間が与えられているなど、同様の熱的流れを対象にした形態も様々である。
また六甲枝垂れやMiyajimaOfficeなどでは、山脈や谷を含めたマクロな環境が思考され、エアー・ハウスやLessでは環境は抽象的な扱いであり、北向傾斜住宅では目下の傾斜を対象としたミクロな環境が思考されているなど、環境におけるスケールの捉え方も様々であることがわかる。

さらに、レクチャーの中で、三分一氏は、「同様に見える類似した環境であっても、異なった草花が同居しているように、建築にも異なった回答が生まれる」という趣旨の説明をされていた。同じ日当たりで、同じ向きからの風を受け、同じように四季を過ごしていくように見える環境の中でも、確かに自然界では異なった種の植物が同居することは当たり前のようにおきている。日射により光合成を行い、エネルギーに変える効率性や、蒸散効率など、定量化すればそれぞれに優劣は付けられるのかもしれないが、やはり異なった種が同居しているし、その状況こそ自然に見えるのは確かだ。それらは、それぞれに進化を遂げ、ある一定の環境的な適合性を担保することで、異なったものが同時に存在しうる状況を生んでいるのであろう。そのような考え方からも、三分一氏が同様に見える環境的背景を持っていたとしても、異なった解答としての建築がありえるし、主題となる環境要素の選択の幅が存在している、その方が自然であるという思いが読み取れるのではないだろうか。

つまり私は、建築が背負う動的、静的環境を丹念に読み解き、それに寄り添うような合理的、客観的な形を与えることで、ある意味で一般解としての建築が導かれているのではなく、あくまでも三分一氏の個性によって環境は読み解かれ、選択され、発見された上で、具現化されることによって初めて、特徴的で魅力的な建築を実現されていると考えている。それは非常に合気道的なプロセスを経ているからこそ、逆説的に極めて強い個性、独創によってしか、三分一氏の言う美しい建築として結晶させることはできないのではないだろうか。その合理的で、論理的な建築のプロセスを追っていくレクチャーに、耳を傾ければ傾けるほど私にはそのような思いが強くなっていった。

同時に、そこで生活する、活動する「人間」というものがどのような像として氏の中に位置づけられているのかが気になった。レクチャーの中で「人間も地球のマテリアルの一つである」という趣旨のことを言われているが、当然人間はガラスや鉄と等価ではない。勿論マテリアルの中に完全に等価なものなど存在しないが、通常建築は人間の為に造られるものであるから、人間を主体的に取り扱うことが主題となることは当然である。特に現代においては、建築は人間相互のナイーブな関係性や距離感、ものを食べる、本を読む、転寝するなどのプリミティブな行為などをより具体的に建築に取り入れ、それらを包み込む環境の側を抽象化する手法が多く見られるように思う。
しかし三分一氏の手法は、その逆のように思われる。それは人間事体がマテリアルとして抽象化された存在として取り扱われ、それらを包み込む環境の側を具象化されているように思う。
レクチャーにおいても、人間を意識的に空間の主体に据えるような話は(勿論その部分の思考は建築にこめられていることは間違いないが、建築の主題ではないという意味において)注意深く回避されているように感じた。つまり、三分一氏の建築の根幹には、ある特定の機能に対する執着のようなものは感じられず、場があっけらかんと用意されるように思う。
例えば、犬島では、アートの入れ物としての建築というよりは、建築により、場が生まれる。その中でアートは自由に組み込まれればよいというほどに、あっけらかんと自立した空間を生み出されているし、エアー・ハウスでは、ドライに並列された空間は、そこで住まう人がどこをリビングと考え、どこで寝たとしても構わないというほど空間が自立した状態に見える。誤解を恐れずに言えば、建築が背負って建つ環境にかなう場を具体化できれば、空間化できれば、人はその中で、自ずから生き生きと暮らしていける、またその状態、風景こそを美しいと感じ、持続的に受け入れるのだという思想の現われなのではないだろうか。やはりまず場が、建築があるのだ。
その思想とは、そもそも人間というものは、地球の摂理にかなうもの、地球の一部となりうる建築を、美しく、快く、持続的に受け入れるという、人間の生物としてのたくましい本能的な力を信じて疑わない姿勢なのではないかと思う。その信念があってこそ、人間という建築においては主題であるべきものさえも、抽象化しうるのではないか。

ケネス・フランプトンは、建築とは、それぞれの場所から、どのように建築を思考するのかという建築の存在の意味を問う事こそグローバリズム時代の均質化の波を打ち破るであろうと言っている。
三分一氏は、様式や伝統の上澄みを継承することが、その場所において建築を生み出す意味なのではなく、むしろそれらが生まれた背景の部分、風土や環境的特性、場合によっては横たわる歴史にまで立ち返ることで、その場所、場所での建築の意味を思考されているのではないだろうかと思う。それは、いわゆるリージョナリズムとして、風土のスタイルを主張し、民俗的なものとして、地域独自の文化とそれぞれの場所のアイデンティティを作り上げることとは異なり、もっとドライに、エネルギーの流れ、循環を含めた環境条件を紐解いて、個の空間に結びつけるという、ある意味で非常にリージョナリズミックな手法によりながらも、結果、「地球」全体において援用可能であるという大いなるグローバリズムへ通じている、しかもそれは本質的に均質なものではなく、多様性をはらんでいることが、私自身にとって最も興味深かった点である。

冒頭で触れたような、自然の猛威に直面した今、私たちは既にこれまでと同じ感覚で建築を考えることは難しくなっているのではないか。それは、地震、津波といった自然災害は勿論のこと、それによって浮き彫りとなるエネルギー供給の問題や物流の問題など、私たちを取り巻く文明的生活が孕んだ根本的な不自然さのようなものを突きつけられているように思う。
そんな中で、三分一氏が、建築を通して人間の営みを、「地球」という静的な、動的な多様な物質に囲まれた「環境」の中に、根付かせる、息づかせるような建築のあり方を模索されている姿勢、「人間のみならず地球にも認められた存在」として目指される建築は、現在我々が直面している生々しい現実に対しても、貴重な示唆を与えてくれるものなのではないだろうか。今こそ一体誰がために建築は建つか、建つべきかを考えなければならない時なのかもしれない。


 

執筆者プロフィール
畑友洋(はた・ともひろ)畑友洋建築設計事務所/1978年兵庫県生まれ/2003年京都大学大学院工学研究科修了/2003-2004高松伸建築設計事務所/2005畑友洋建築設計事務所開設

 

講師:三分一博志(建築家)

□Why 三分一博志 ?

いわゆる著名な建築家は、その作家性を示すキーワードであったり形態であったり何らかの固有のイメージを我々に抱かせてくれます。今回の講師である三分一博志さんについて言えば「環境」というキーワードをイメージする方が多いのではないでしょうか。今回の講演に際しては、『地球のディテール/六甲』という演題を設定していただきました。
さて、環境という言葉を聞いて皆さんはどんなことを連想するでしょうか?今や「環境のためによいことをしましょう」という言葉はとても幅広く、そして金科玉条のごとく使われています。環境ビジネスという言葉が登場し、エコカー減税やエコポイントといった政策までもが実施されています。しかしそこで言う環境問題とは、いつのまにか“地球温暖化防止”に矮小化され、その対策として“CO2排出量削減”ということに主眼が置かれてしまっています。過剰なまでのエコ信仰は、「未来の地球のために」自分のできることを、対価を支払ったりあるいは我慢したりしてでも実行していきましょう、という雰囲気があります。いまの建築の世界では、エコポイントとして認定される高断熱仕様の外装や高効率の熱源装置を採用するなど、ひたすら高価な重装備化の道を歩んでいます。そこには、ともすれば、それらが実行できていないことは“悪”なのではないか?とすら思わされる妙な息苦しさがあります。
一方で三分一さんの建築からはあまりそうした息苦しさは感じられず、むしろ、水や風・光といったいわゆる自然のエネルギーをその敷地固有の地産の材のごとく扱い、それらと共存するように建築を組み上げていくことで、建築を周囲から遮断するのではなく地球の一部分として環境に溶け込ませています。敷地固有の情報を読み解いていく様はとても楽しげであり、「未来の地球のために」何かをしていこうということが出発点なのではなく、むしろ人間が現代的快楽を享受する以前から有している本能に従いながら「今を積極的に楽しむために」環境を積極的に捉え考えることが原点にあるように感じられます。
アーキフォーラムのシリーズテーマ「誰がために建築は建つか」に照らして言えば、三分一さんの言う“地球のディテール”を考える、とは一体誰のための行為なのか。
そんな問い立てをしてみるとともに、会場に脚を運んでくださるお一人お一人が「環境」について自らの考えを再確認あるいは再設定できるような充実した回になれば、と思います。(満田衛資)

□第11回講演:
地球のディテール/六甲/三分一博志

□日時:2011年3月26日(土)

●略歴
三分一 博志(さんぶいち・ひろし)
1968年生まれ
東京理科大学理工学部建築学科卒業後、小川晋一アトリエを経て
三分一博志建築設計事務所設立

●主な受賞
2000年 SDレビュー新人賞(Running Green Project)
2001年 SDレビュー 朝倉賞(三輪窯)
2003年 第19回吉岡賞(エアーハウス)
2005年 Detail Prize 2005 , Special Prize(三輪窯)
2010年 日本建築大賞(犬島アートプロジェクト「精錬所」)

●主な著書
2011年 JA 81 SPRING , 2011『 三分一博志 』(今月発売/新建築社)